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『日本のガラス/明治時代』


明治前期 薩摩切子(不明)


明治前期 薩摩切子(不明)


明治前期 薩摩切子(不明)

明治6年(1873)、三条実美太政大臣の家臣・村井三四之助が家令の丹羽正庸とともに、 東京・品川の目黒川のほとりにガラス製造の「興業社」を創立した。これが、日本で初の西 洋式ガラス製造工場で、機械、器具をはじめとして坩堝の粘土、築炉用の耐火煉瓦など、主 要な材料は英国から取り寄せ、技術指導員として同じ英国からトーマス・ウオルトンを招き、 坩堝造りから始まった。工員は東京や大阪のガラス職人を高給で雇い入れ、坩堝の完成を待 って板ガラスの製造を計画したが、完全な製品を製造するまでには至らなかった。

明治維新後、富国強兵政策の一環として産業振興を図る政府は、明治9年(1876)4月、 経営不振に陥っていた興業社を買収して、官営の「品川硝子製作所」として創立し、翌10 年(1877)官制改正により「品川工作分局」にお改称し、11月には操業を開始した。
最初の製品は舷灯用の紅色ガラスで、佐賀藩のガラス工場から来た藤山種広が製造を担当し た。明治12年(1879)4月には食器、その他日用品のガラス器の製造を始め、12月 には化学実験所を設けて鉛丹と炭酸カリウム製造を兼業するようになり、翌年5月から販売 できるようになった。明治15年5月には英国の技師エマニュエル・ホープトマンを雇用、 切子加工の技術が日本人に伝えられた。

また、明治14年(1881)年2月、同16年(1883)5月と、2度にわたって板ガ ラスの製造を試みたが、いずれも失敗し製品化することはできなかった。そしてその16年 9月、官制改正により工作局は廃止されて再び工部省管轄になり「品川硝子製作所」に改称 されたが、経営状態は悪化して、明治17年(1884)2月には西村勝三、稲葉正邦に貸 与されることになった。これは、製造される製品の品質は当時の最先端をいくものだったが、 民間のガラス業者との価格競争に敗れたのが原因だったとされている。

西村勝三らに貸与された品川硝子製作所ではあったが、相変わらず業績不振で損失額は大き く、数ヶ月にして共同経営者・稲葉正邦は離れることになった。明治18年(1885)、 西村勝三は政府に貸与ではなく払下げを申請し、工場、設備、物品のすべてを約8万円、5 年据置後に払い込むという条件で払下げを受けた。

翌19年(1886)4月、西村勝三は渡欧して各国のガラス工場を視察した。なかでもド イツのシーメンス・リジネラチブ式製壜工場のシーメンス式窯と製造法に感銘をうけ中島宣 を同工場に派遣して窯と製法を学ばせた。中島宣はドイツでガラス製造法を習得し、各種の 吹込み型や機械を買い求め、ドイツのガラス工2名を伴って明治21年(1888)5月に 帰国し、明治22年(1889)1月、ルツボ10本入りのシーメンス式窯を築炉してビー ル瓶の製造をはじめた。業績が順調に推移したことを受けて、西村勝三は事業拡張を図って 株主を募り、明治21年に「有限会社品川硝子会社」を設立し、社長に柏村庸、取締役に西 村勝三、正田章次郎、馬越恭平、高浜忠恕が就任し、品質も向上、生産量は増加することに なったが、その後、生産過剰を招いて在庫の増加、原料価格の騰貴、経済不況におけるビー ル瓶相場の下落などにより打撃を受け、明治25年(1892)11月、遂に解散すること になった。この品川硝子製作所系統のほかに、伊藤契信は明治8年(1875)に大阪にガ ラス工場、明治16年(1883)には日本硝子会社、同年8月には川崎で川崎硝子会社、 明治27年(1894)にわ東京・芝田町に東京硝子株式会社を設立したが、いずれも数年 で解散することになった。明治20年(1887)9月にわ、渋沢栄一、益田考、浅野総一 郎な当時を代表する経済人によって、福島・小名浜に磐城硝子会社が設立されたが、これも 明治23年(1890)にわ解散した。明治初期から中期にかけて、官業、民間など多くのガ ラス会社が設立されては、技術の未熟、品質、価格、供給過剰などにより長続きするところ は少なかったが、これらの工場で技術を磨いた職人の多くは後に独立し、熟練の技術が伝え られてガラス工業の基礎になったことは間違いない。明治も中期になるとガラス工業も発達 して、23年(1890)頃には東京で50余名、大阪で100余名、名古屋に34名のガラス 工場が稼動していたといわれる。明治後期はガラス業者の盛衰消長の著しいときでもあった。 しかし明治末から大正にかけて工場は激増し、ガラス工業の発展は目を見張るものがあった。 東京を除く東日本地区にも明治時代に創業した工場は数あり、それの多くは木炭を燃料にし ており、新潟では産出する天然ガスを使用していた。

明治初期頃のガラスの呼称「玻璃」「瑠璃」「ビードロ」「ギャマン」などは、西洋文明の 多くがイギリス、ドイツから多く入って来たことから、品川硝子製作所が設立された明治9 年(1876)頃からは、英語やドイツ語を語源とする「ガラス(硝子)」と一般的に称さ れるようになった。

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